以前書いた、哲学をいかに学ぶかの続編として、ハイデガー『存在と時間』について書いてみます。
ハイデガー『存在と時間』は、いうまでもなく哲学書の古典です。
とはいえ、文章が難解で厚いこともあってなかなか読み通すことが大変な本でもあります。
わたしは、通勤電車に揺られながら、ちくま学芸文庫版で『存在と時間』を読みました。
最初に自分なりに重要だと思うところを傍線をひいていきました。次に傍線をひいたところを拾い読み、3回目には語句索引をもとに「現存在」、「世界内存在」などの該当個所にマーカーを引きながら読み返しました。そうやって読んで、ようやくとハイデガーの考えていたことが霞の向こうから見えてきたことを覚えています。
とはいえ、難しくて読むたびに自分のこれまでの理解は間違っていたのではないかと考えさせてくれる本です。
2013年に岩波書店と作品社から新しい訳がでてきて、ほかの訳本はどうなのだろうかと興味がわいたこともあり、比較してみました。
なお、哲学書をこう読んでみては?の「ニーチェやハイデガー、ウィトゲンシュタインは?」で書いたように、へーゲルより後の哲学者の本である『存在と時間』を、最初に読む哲学書としておすすめはしません。ただ、「読みたい!」という気持ちも大切だと思います。そこで、この記事が『存在と時間』を初めて読む哲学書に選ぼうという人の参考になれば、と思っています。
まとめた項目は、出版年やページ数などのデータ、訳文の比較、わたしが読んでみての印象などを含めた特徴的な点です。
項目 | ちくま学芸文庫 | 創文社 | 中公クラシックス | 岩波文庫 | 作品社 |
---|---|---|---|---|---|
題名 | 存在と時間 | 有と時 | 存在と時間 | 存在と時間 | 存在と時間 |
訳者 | 細谷貞雄 | 辻村公一 ハルトムート ・ブ※ナー(注1) | 原佑 渡邊二郎 | 熊野純彦 | 高田珠樹 |
出版社等 | ちくま学芸文庫 筑摩書房 | 創文社 | 中公クラシックス 中央公論新社 | 岩波文庫 岩波書店 | 作品社 |
冊数 | 2 (上、下) | 1 | 3 (T、U、V) | 4 (一、二、三、四) | 1 |
発売年 | 1994 | 1997 | 2003 | 2013 | 2013 |
総頁数 | 996 (524,472) | 651 | 1,107 (336,413,358) | 2,093 (532,542,554,465) | 741 |
訳注 | ○ (各巻末) | ○ (巻末) | ○ (各節末) | ○ ((数)段落末) | ○ (巻末) |
解説頁数 | 35 (11,24) | 9 | 37 (37,0,0) | 64 (0,0,64,0) | 26 |
人名索引 | ○ (×、○) | ○ | ○ (×、×、○) | ○ (×、×、×、○) | ○ |
事項索引 | ○ (×、○) | × | ○ (×、×、○) | ○ (×、×、×、○) | ○ |
文献索引 | ○ (人名索引に含む) | × | × | ○ (×、×、×、○) | × |
年譜 | × | × | ○ (×、×、○) | × | × |
梗概 | × | × | × | ○ (○、○、○、○) | × |
用語・訳語解説 | × | × | × | × | ○ |
第7版 まえがき(注2) | ○ (訳注に含む) | ○ | ○ (訳注に含む) | ○ | ○ |
○×は該当項目の有無を、( )内は各分冊の数字、有無を示す
解説頁数には訳者あとがき等を含む
(注1)※はフの小文字。以下同じ
(注2)第7版まえがきで『存在と時間』の後半部を書かないとハイデガー自身が述べている
ここで、各訳本の文章を引用してみます。
"Zuhandenheit"と"Vorhandenheit"がでてくる最後に近い箇所(第2編第4章第69節(b))の比較です。それぞれの訳語にあたる箇所をゴシック体にしています。
「この存在了解は、まだ中性的な未分化な了解であることがある。その場合には、用具的存在と客体的存在とがまだ区別されずにおり、まして存在論的に理解されずにいる。」(マルティン・ハイデッガー『存在と時間 下』 細谷貞雄訳 ちくま学芸文庫 P285)
「<その場合>有を理解することが、中性的な<すなわち現有の有と手許に有るものの有や直前的に有るものの有とが未だ区別されていない>ままに留まっていることはあり得る。その場合、手許に有ることと直前的に有ることとは、未だ区別されておらず、況んやオントローギッシュに概念的に把握されてはいない。」(『有と時』(ハイデッガー全集第2巻 辻村公一、ハルトムート・ブ※ナー訳 P537)
「存在の了解は中立的であることがある。そのときには、道具的存在性と事物的存在性とはまだ区別されておらず、ましてや存在論的に概念的に把握されてはいない。」(ハイデガー『存在と時間V』原佑、渡邊二郎訳 中公クラシックス P145)
「存在の理解は中立的でありうる。手もとにあるありかたと目のまえにあるありかたとは、その場合にはなお区別されておらず、まして存在論的に把握もされていない。」(ハイデガー『存在と時間(四)』熊野純彦訳 岩波文庫 P177)
「この存在の理解はあくまで中立的で漠然としたものかもしれない。もしそうなら、手許に在ることと手近に在ることも互いにまだ区別されておらず、ましてやそれぞれが存在論的に把握されてすらいないだろう。」(マルティン・ハイデガー『存在と時間』高田珠樹訳 作品社 P542)
ちくま学芸文庫、中公クラシックス、創文社、岩波文庫の各訳について作品社版の訳者である高田氏が訳者あとがきで682ページから書かれています。その評はとても興味深く、本選びの参考になります。わたしがそれに重ねて評じるのはいうまでもなく力不足です。あくまでも素人が読んだ感想を書いた、くらいでお読みください。
ちくま学芸文庫版は、「1963年12月10日理想社から発行されたハイデッガー選集第16巻を基にした」(マルティン・ハイデッガー『存在と時間 上』 細谷貞雄訳 ちくま学芸文庫 巻末)ということです。そのためか、訳語と訳文は少し古いように思われます。とはいえ、文章がしまった印象でリズムよく読めました。訳注が文末にまとめられていることもあり、本文を一気に読むような人向け、といったところでしょうか。
創文社版は、「翻訳の根本方針としては、日本語としての読み易さを犠牲にしても、テクストの言い廻しをも出来るだけ再現することに努める直訳を採った」(『有と時』(ハイデッガー全集第2巻 辻村公一、ハルトムート・ブ※ナー訳 創文社 B)そうです。題名の"Sein und Zeit"を『有(う)と時(とき)』と訳しているのは、この本だけです。Sein、Zeitをそれぞれ「存在」、「時間」と訳さず、「有」、「時」とした理由についてはP646から説明があります。翻訳の方針からいっても、原書と比べながら読む人向けでしょうか。
中公クラシックス版は、「<世界の名著>62(1971)および中公バックス版<世界の名著>74(1980)に収められてきたハイデガー『存在と時間』の邦訳を」「その共訳者でもある渡邊二郎が、その間におけるハイデガー研究の飛躍的進展に鑑み、また、翻訳書としての正確さと読みやすさとを念頭に置いて、可能なかぎり必要な加筆修正を施して、本文はもとより、訳注、解説、年譜、索引などにおいても、全面的な刷新を図ったものである」(ハイデガー『存在と時間T』原佑、渡邊二郎訳 中公クラシックス 凡例1)とあります。出版年からいって訳語が古いところはあるかもしれませんが、訳文から古さはあまり感じられませんでした。
岩波文庫版は、「訳出にさいしては、なるべく原文に忠実であることをこころがけたのはむろんのこと、いくつかの指針にしたがっている。ひとつは、訳語にかんして、ハイデガーが使用しているドイツ語のなりたちとニュアンスとをできるだけ活かすという方針」(ハイデガー『存在と時間(三)』熊野純彦訳 岩波文庫 P551ー552)を採っています。文章からはやわらかい印象を受けますし、「各巻の冒頭に「梗概」を置き、また段落ごとに「注解」をしるした」(同 P553)こともあって、輪読会に使うにも便利そうです。
作品社版は、「長谷川宏氏による『精神現象学』の訳のように、注のない本文だけの翻訳が理想だったが、結局、いくつか訳注を入れることになった」(マルティン・ハイデガー『存在と時間』高田珠樹訳 作品社 P689)とあるように、同じ版元であるへーゲル『精神現象学』と似た印象を受け、文章を往きつ戻りつすることなく読んでいけます。また、用語・訳語解説とあわせて、事項索引で「存在」や「非本来的な時間性」などでは用例、意味ごとに参照ページが分かれており、類語、対義語も示されていて、索引も読めます。ハイデガーの思想を学ぶだけではなく、「読む」のによさそうです。
存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫) |
存在と時間〈下〉 (ちくま学芸文庫) |
|||
有と時 (ハイデッガー全集) |
存在と時間〈1〉 (中公クラシックス) |
|||
存在と時間〈2〉 (中公クラシックス) |
存在と時間〈3〉 (中公クラシックス) |
|||
存在と時間(一) (岩波文庫) |
存在と時間(二) (岩波文庫) |
|||
存在と時間(三) (岩波文庫) |
存在と時間(四) (岩波文庫) |
|||
存在と時間(作品社) |
次回へ | 前回へ |