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阪神・淡路大震災-田中康夫『神戸震災日記』

はじめに

 この記事は、当初の予定 では7月19日の予定でしたが、予定を変更し4月19日に公開しています。

 平成28年4月14日以降に発生した、平成28年熊本地震により亡くなられた方々に謹んでお悔やみを申し上げますとともに、被災された方々に心よりお見舞いを申し上げます。
 この記事は、平成28年熊本地震での被災地入りという形でのボランティア活動を慫慂するものではありません。田中氏が記すように「出来ることを出来る範囲で行なうのがボランティアなのだ」(『神戸震災日記』P16)と思います。お読みいただき、さまざまな形で被災地と関係をもつさいの一助になれば、幸いです。

時代概観

 今回は、前回の「南北問題―鶴見良行『バナナと日本人』」でみた昭和57(1982)年頃以後、阪神・淡路大震災のあった平成7(1995)年頃までの出来事をみていきます。

国内政治

 当初、衆議院解散をしないと語っていた中曽根首相は、昭和61年6月2日に招集された臨時国会の冒頭に自民党と新自由クラブの両党代表のみが出席する中で解散しました(死んだふり解散)。そうして行われた7月6日の衆参同日選挙では、解散時は250議席と過半数(256議席)割れであった自民党でしたが、「自民圧勝、衆院300台に」[1]と報じられるように、最終的には自民党が安定多数を大きく上回る304議席をえました。その一方で、社会党が解散時の109議席を下回る86議席となりました。この大勝を受けて、中曽根首相は自民党の党則を変更し、任期を延長して昭和62年10月末まで自民党総裁・首相にとどまります。
 中曽根総裁・首相の任期満了後に、その指名により昭和62年11月6日に竹下登が首相となりました。竹下首相は、昭和63年10月の政治家、官僚への贈賄疑惑が発覚した後は支持率が急落しつつも、3%の売上税を導入しました。しかし、閣僚や竹下首相の秘書らのリクルート・コスモス社からの未公開株の収賄やリクルート社からの借金など、リクルート事件は次第に広がりをみせ、竹下首相は平成元(1989)年4月25日に退陣を表明しました。
 次の首相には、竹下派の影響力のもとで派閥の領袖ではない宇野宗佑が6月2日になりました。しかし、社会党の土井たか子委員長の人気とそれに伴う女性候補の大量当選(マドンナ旋風)のため、7月23日投票の参議院選挙で自民党は大敗し、与野党が逆転しました。自身の女性問題と大敗の責任をとり宇野首相は退陣し、再び竹下派の支持により、海部俊樹が8月に後継総裁・首相となりました。クリーンなイメージの海部が首相になったことで内閣支持率が回復したこともあり、海部首相は衆議院を解散しました。

 平成2年2月18日の衆議院議員総選挙では、自民党は286議席と微減させましたが安定過半数をとり、社会党は139議席と大きく議席を伸ばしました。その後、海部首相は湾岸戦争では多国籍軍に多額の資金供与を行い、ペルシア湾に自衛隊の掃海艇を派遣しましたが、高い支持率を続けました。そうしたなかで、リクルート事件からの政府腐敗と政治不信に対して提出した政治改革法案が廃案となったことで、解散を示唆する「重大な決意」を表明したところ、自民党で強烈な「海部おろし」がおこり、海部は平成3年10月5日に退陣を表明しました。総裁選で宮澤喜一が総理・総裁となりましたが、その選出には竹下派の支持があり、宇野、海部、宮沢と三度にわたり竹下派の意向により首相が決まることとなりました。
 その後、宮沢内閣ではPKO協力法(正式名称:国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律)が自衛隊の活動範囲を狭めることで成立しましたが、政治改革は進みませんでした。その一方で、バブルが崩壊し、さらに平成4年2月には東京佐川急便事件では東京地検特捜部が東京佐川急便の旧経営陣を特別背任容疑で摘発しました。裁判のなかで、同社と竹下派、さらに暴力団との関係が報じられました。また、自民党副総裁で竹下派の金丸信が政治資金規正法違反で起訴されました。そうしたなかで竹下派が分裂し、政治改革をめぐる自民党内の各派の思惑から、羽田孜らが新生党を、武村正義らが新党さきがけを結党し、自民党は分裂しました。

 平成5年7月18日の衆議院議員総選挙では、自民党は223議席と、分裂後の議席が222議席であったことを考えると、過半数割れではあったものの善戦しました。一方で、社会党は77議席と選挙前の議席数137をほぼ半減させる惨敗でした。「政局のカギ 3新党 野党の軸 社党転落」[2]とあるように、55年体制は終了し、宮沢首相は退陣しました。非自民の7党1会派(社会党、公明党、民社党、社会民主連合、日本新党、新生党、新党さきがけ、参議院の院内会派である民主改革連合)が連立を組み、議席数では与党内で4番目の日本新党から細川護熙が8月6日に首相になり、38年にわたる自民党政権が終わりました。
 細川内閣の最重要課題として政治改革があり、それは選挙制度改革に集約される形でなされ、小選挙区比例代表並立制が導入されました。また、ウルグアイ=ラウンドでのコメの部分開放も合意に至りました。しかし、細川首相は東京佐川急便からの借金とその使途についての追及を受け、さらに新たな疑惑が浮上したこともあり、4月8日に辞任を表明しました。
 それを受けて、新生党の羽田孜が内閣総理大臣となります。ここで、新生党、公明党、民社党が新会派「改新」を結成し、連立与党内で第一党となる社会党を上回る勢力となりました。これに反発した社会党が連立政権から離脱し、新党さきがけが閣外協力に転じた結果、羽田政権は少数与党となり、予算成立後に内閣不信任案をめぐって国会は紛糾し、総辞職しました。
 各党が政権獲得に向けて動くなかで、衆院本会議での首班指名投票で海部俊樹を破り、平成6年6月30日に、社会党委員長の村山富市が総理大臣となり、自民党と社会党、新党さきがけによる、自社さ政権が誕生しました。ここで社会党はこれまでの、「日米安保体制の堅持、自衛隊の合憲、日の丸・君が代の容認など、それまでの社会党の主張を大きく転換する見解を表明」[3]しました。対して、新生党、日本新党らが合同して「新進党」が結成されました。
 村山内閣は、平成7年1月17日の阪神・淡路大震災、3月20日の地下鉄サリン事件に見舞われました。「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)をだすなどしたものの、平成8年1月に退陣しました。

 この時期の国内政治は、55年体制の終了と自民党政権の終焉、新たな政治体制への転換期といえます。

国際政治

 ここでは、少し時代をさかのぼって第二次世界大戦直後から平成7年頃までの国際政治を見ておきます。
 第二次世界大戦後、世界はアメリカを中心とする資本主義陣営とソ連を中心とする社会主義陣営に分かれ対立してきました(東西冷戦)。
 昭和28年のスターリンの死によって粛正による支配が終わり、のちに共産党書記長についたフルシチョフが昭和31年にスターリン批判を行ない西側諸国との平和共存政策をとって、両陣営間の緊張は一時的に緩和されました。
 フルシチョフが引退(実質的には失脚)し、ブレジネフが昭和39年に書記長につくと、昭和43年のプラハの春など同盟諸国や国内には抑圧的な政策を採りつつも、1970年代初頭には対外的にはデタント(緊張緩和)と呼ばれる関係が築かれつつありました。しかし、経済の停滞により次第にソ連の国力が衰え始めるのに合わせ、ブレジネフの権力は衰え、長期政権により腐敗が広がりました。また、昭和54年のアフガニスタンへの侵攻は、西側諸国によるモスクワオリンピックのボイコットという事態を招き、緊張は高まっていきました。
 昭和57年のブレジネフの死により、ソ連はようやく国内体制の改革への途に就きますが、短命の政権が続きます。ようやく昭和60年にソビエト共産党書記長になったゴルバチョフが、ペレストロイカ(改革)をおこない、国内政治・経済体制の改革と対外関係の緊張緩和をすすめていきました。
 そうしたなかで社会主義諸国で民主化の動きが高まり、東ドイツでは昭和36年に西ドイツとの間に築かれたベルリンの壁が平成元(1989)年11月に崩壊し、12月にはマルタ島で行われた米ソ首脳会談では冷戦の終結が宣言されました。翌年10月には第二次世界大戦後分裂していた東西ドイツが統一されました。   

 この後、バルト3国の独立、ソ連の解体と独立国家共同体の創設が平成3年になされました。この過程でゴルバチョフは失脚し、エリツィンがロシア連邦大統領となり市場化を進めますが、経済は混乱し、平成11年には後継大統領にプーチンを指名して辞任します。
 また、中東では平成2年8月にイラクがクウェートに侵攻し、併合しました。平成3年1月にアメリカ軍を中心とする多国籍軍がイラクを空爆し地上軍で制圧後に停戦して、クウェートを解放しました。
 この際、日本は多国籍軍に130億ドルの戦費を提供し、平成4年にはPKO(国連平和維持活動)への自衛隊の参加(海外派遣)を可能にするPKO協力法が制定されました。

 この時期の国際政治の流れは、資本主義と社会主義の政体・イデオロギー対立をもとにする冷戦の終結と日本の自衛隊の海外派遣の開始といえます。

経済

 世界同時不況や2度にわたるオイルショックを乗り越えた日本経済は、順調に回復します。
 その過程で、それまでの国家単位の経済活動から多国籍企業を中心とする経済活動や金融市場の拡大という、ボーダ(国境)レス(なき)エコノミー(経済)へと次第に変化をしていき、当時すでに世界で活動をしていた日本企業もさらに活動を広げていきます。
 その象徴的な出来事として、昭和60年にドル高を是正するように各国が合意したプラザ合意があります。前回みたように1970年代にニクソン米大統領が金との兌換(交換)を停止しました(ニクソン=ショック)。固定相場制から変動相場制に変じてもドル高がアメリカ経済を苦しめました。世界経済に大きな比重を占めるアメリカ経済の停滞は世界経済の停滞でもあり、各国はドル高是正に同意しました。その結果、昭和60年の1ドル240円台から昭和61年には160円台にまですすみました。ドル安=円高の急激な進展は輸出企業を中心とする日本経済の力を弱めていきました(円高不況)。
 そこで円高不況への対応として政府・日銀は低金利政策をとり、日本経済は回復し、繁栄を謳歌していたかにみえました。政府も昭和63年の経済白書(年次経済報告)で「円高によって,我が国の一人当たりGNPは世界でトップに肩をならべるようになりました」と記しています。さらに、平成2年の経済白書(年次経済報告)には「今回の景気上昇局面は,「いざなぎ景気」に次ぐ長さとなり,設備投資と個人消費を中心とした内需主導型の自律的な拡大を続けております」と自信に満ちた記述があります。また、三菱地所によるロックフェラーセンターの買収も平成元年にあり、この時期は日本経済にとって最もよいと思い込んでいた時期でした。
 しかし、実態は、土地や株などに資金が流入したことによる、かりそめの繁栄で、のちにバブル経済(昭和61年から平成3年まで)と呼ばれることになります。   

 また、外需・輸出依存型の日本の経済構造は、これも前回みたように、日本に貿易摩擦を招くもとでもありました。それまで国内農家を保護するためもあり、また低いとされる食糧自給率の維持のためにも、食料品を中心に高い関税障壁と安全基準を設けてきました。しかし、先述の経済のグローバルエコノミー化は戦後のGATT・IMF体制と相まって、自由貿易の拡大を日本に迫るものでした。
 具体的には、1980年代の半導体摩擦のほか、昭和61年に始まった、ウルグアイ=ラウンドで日・米・EC間の対立が目立った農産物の貿易自由化が挙げられます。アメリカからの強い要望により、日本は牛肉とオレンジの輸入自由化、さらに主食として日本の保護政策の象徴的な意味合いもある、コメも部分開放することになります。

 しかし、日本は「バブル」崩壊により、のちに「失われた20年」と呼ばれる、長い景気低迷に見舞われます。

 この時期の経済は、バブルとのちに称される景気拡大とその崩壊といえます。

社会

 経済の項でみたように、のちにはバブル経済と呼ばれますが、当時は日本の繁栄とみられていました。強い円と好景気を背景に、海外のブランド品が多く輸入され、海外旅行が増加しました。
 今回みる田中康夫氏のデビュー作『なんとなくクリスタル』が発表されたのが、バブルの少し前になる昭和55年です。女子大生でモデルの主人公の、ブランド品や流行のレストランなどに囲まれ、皮膚感覚で行動する生活が大量の注とともに描かれており、「クリスタル族」という流行語がこの本から生まれました。とはいえ、注や文末の少子高齢化を示唆するデータなどをみるに、田中氏は醒めた視線で当時の風俗を眺めていたように思われます。

阪神・淡路大震災

 平成7(1995)年1月17日5時46分に、淡路島北部にマグニチュード7.3の地震が発生しました。神戸と洲本で震度6を観測し、京都、大阪はもとより東北から九州にかけて揺れが感じられました。
 「この災害による人的被害は、死者6,434名、行方不明者3名、負傷者43,792名という戦後最悪の極めて深刻な被害をもたらした(消防庁調べ、平成17年12月22日現在。)。
 施設関係等被害の概要について、住家については、全壊が約10万5,000棟、半壊が約14万4,000棟にものぼった。」[4]という、未曽有の大災害でした。
 道路や鉄道も多くが不通になり、電気、ガス、水道なども止まったなかで、倒壊した家屋から避難した人々は、避難所、自動車あるいは公園などで過ごさざるをえませんでした。
 当時の画像が、神戸市によって「阪神・淡路大震災「1.17の記録」として公開されています。その中からいくつかの画像を、以下に紹介いたします。なお、画像は、クリエイティブ・コモンズ・ライセンス 表示2.1 日本(CC BY 2.1 JP)に基づき、利用しています。

写真コード j-l1 撮影日 1995年1月19日
エリア 長田区 サイズ 1000×595
カテゴリ 鉄道・駅 容量 189.0KB
撮影場所 JR新長田駅前

写真コード f082 撮影日 1995年1月20日
エリア 長田区 サイズ 1948×1352
カテゴリ ビル・商業施設 容量 436.3KB
撮影場所 五番町室内商店街

写真コード f081 撮影日 1995年1月18日
エリア 長田区 サイズ 1948×1370
カテゴリ ビル・商業施設 容量 454.9KB
撮影場所 菅原通菅原市場
 菅原市場は、「”絵になる”復興」として『神戸震災日記』[5]にでてくる。

写真コード f147 撮影日 1995年7月25日
エリア 長田区 サイズ 1000×599
カテゴリ 航空写真 容量 127.0KB
撮影場所 仮設若松住宅(日吉町1丁目)周辺

 当初の予定稿では、以下に画像を表示していましたが、2016年4月に発生した平成28年熊本地震の状況を鑑み、当分の間、画像の表示をしません。上のリンク先から画像をご覧ください。 (2016年5月19日に画像を表示しました。)

 災害への対応状況については、阪神・淡路大震災教訓情報資料集 に詳しくまとめられています。このなかで時期別の対応状況がまとめられ、「第2期・被災地応急対応(地震発生後4日~3週間)」の「2-04.ボランティア」に、 種類・活動内容受入と組織化問題点 が整理されています。

田中康夫(1956年―)

 昭和31年に東京都武蔵野市に生まれ、小学2年から高校卒業までを信州で過ごす。
 一橋大学法学部在学中に著した『なんとなく、クリスタル』で「文藝賞」受賞。作家、タレントとして活動する。
 平成3年2月21日には、日本政府が湾岸戦争への戦費供与を決定したことに、「戦争に反対する『文学者』の討論集会」での討論を経て、柄谷行人、高橋源一郎らとともに「私は、日本国家が戦争に加担することに反対します」という声明文を出しました。
 平成7年1月17日に起こった阪神・淡路大震災の4日後から、50ccバイクに跨がりボランティア活動を約1年間継続する。
 平成12年~平成18年に長野県知事、平成19年~平成24年に参議院議員、衆議院議員として活動する。
 平成26年に『33年後のなんとなく、クリスタル』を出版した。
 「2015年5月に「イデオロギー」とは無縁の新しいムーブメントとして一般社団法人「ワイアンドティ研究所」を立ち上げ、代表理事に就任」する。

 この項は、「田中康夫 Official Web site & 田中康夫プロフィール」 を参考に作成しました。

田中康夫『神戸震災日記』

 『神戸震災日記』は、阪神・淡路大震災直後から新聞・雑誌に書かれた原稿のうち阪神・淡路大震災に関する文章に加筆修正したものと書き下ろしの文章からなります。書かれた時期としては、震災直後の週刊SPA!95年2月8日号~5月27日号、日刊スポーツ95年7月3日~8月21日[6]、元となった単行本(平成8年1月刊行)の書き下ろしにあたります。
 また、当時の行動は、『ペログリ日記’94~’95 震災ボランティア篇』(田中康夫著 幻冬舎文庫 平成9年)でも読むことができます(平成28年4月現在、いずれの文庫本も絶版のようです)。

活動の概略

 『ペログリ日記’94~’95 震災ボランティア篇』を参考に、震災直後の田中氏の活動を日記形式でまとめておきます。

 1月17日 朝10時過ぎに、パークハイアット東京でS嬢と一緒にいたときに、友人からの留守番電話を聞いて阪神・淡路大震災を知る。
 1月18日 「机に向かうも遅々として進まず」、「一人でベッドに入るも、なかなか寝付けず」[7]
 1月19日 「何が一体、自分に出来るのか判らない」[8]と思いながらも、両親が洗礼を受けていることもあって、カトリック大阪教区大司教館へ電話し、バイクで運搬の仕事があることを知り、バイクを手配して神戸に行く準備を始める。
 1月20日 東京でミネラルウォーターや野菜ジュース、リュックなどを購入。
 1月21日 朝一番の飛行機でS嬢と東京から関西国際空港へ向い、大阪で50ccバイクを購入する。神戸市の中山手教会へ行き、バイクでミネラルウォーター、カイロなどの物資を配る。
 1月22日 被災者との会話から、漫画雑誌や漫画単行本、口紅や化粧水などを渡そうと思いつく。「行政の谷間にある人々を救う」[9]ためなら、避難所ではなく、公園などでのテント生活者や半壊・損壊家屋に留まる人に手渡す方が良いと考え、この後50ccバイクで配るようになる。
 1月23日 朝、関西国際空港から帰京し、ラジオ出演、打ち合わせの合間をぬって、日本航空に電気カミソリ、アイマスクを、資生堂にドライシャンプー、ベネトンに下着や靴下を、小学館に漫画を依頼する。最終便で関西国際空港へ。
 以後、東京と大阪(荷物の送付先・宿泊先として常宿のウェスティンホテル大阪をベース基地にして)、被災地を往復し、公園や学校のテント、銭湯などで、下着や化粧品を手渡しする生活が8月6日まで続きます。
 「夏が終わる(まで)は、週に一度の泊まり掛けというペースを(ほぼ)、保ち続けた。
 が、秋に入って一旦(いったん)、「神戸」から足が遠退()き始める。(略)僕は戸惑っていたのだ。震災から半年以上を経て、今後、如何(いか)なる相手に如何なる精神的手助けを如何なる間合いで独自に行ない続け得るであろうか、と」[10]
 避難所が夏の終わりとともに閉鎖されたのち、平成7年大晦日の晩に仮設住宅を訪れて、次のように思いいたります。
 「煎餅を会話の”呼び水”に、胸の中から語り出したい吐き出したいと自力本願の相手が望んでいる事柄を幾何かでも引き出せたら、と思い乍ら一か月に一,二度、「神戸」を訪れる」[11]

神戸行きについて

 田中氏が、個人として震災直後の神戸に向かった理由は、『神戸震災日記』の冒頭に書かれています。
 「正直な話、地震当日は僕も数多(あまた)の傍観者の一人でしかなかった。」[12]
 二日目に「東京に居て、何時(いつ)もと変わらぬ生活を続けて許されるものだろうか、という疑問が頭を(もた)げて来た」[13]
 というのも、関西人の血が四分の一流れていて、京都・大阪・神戸に愛着があり、交際相手に関西出身の女性が多く、文章にもしてきたし、地理や道路の知識もあるからだ。「世話になった街に恩返しをしようじゃないか」[14]
 こうした神戸行きの思いは、「「東京目線の報道」振りを見て」[15]、さらに大きくなった、といいます。

 しかし、三か月目を迎えた辺りから、実体が曖昧で、あるがままを受け入れるという点で、「僕と神戸は似ているのではなかろうか」[16]と思うようになる。
 その感覚から神戸に向かった理由は明確には書かれていませんが、おそらくは我が身切られる思いといったところだったのでしょうか。

感想

 読んでいて気づいたことがあります。
 それは、日刊スポーツに掲載された文章は、文庫で244ページ中100ページあり、「ゲンチャリにまたがって」と題名がつけられています。書かれた時期は、上述のとおり週刊SPA!の文章と書き下ろしの間の時期にあたります。この日刊スポーツの文章には、「公」と「私」という言葉が33記事中10記事[17]にみえます。『神戸震災日記』の他の文章には、それらの言葉はほとんどありません。また、『ペログリ日記’94~’95 震災ボランティア篇』の当該期間にはありませんでした。

 震災という同じテーマを扱っているのですから、同じ言葉がでてくるのはわかりますが、およそ3分の1の記事にでてきます。掲載した媒体の性質とその読者層を考慮してのこととは思いますが、日刊スポーツでの「公」と「私」の使用頻度はかなり高く、特徴的な視点と考えましたので、整理しておきます。

 まず、『ペログリ日記’94~’95 震災ボランティア篇』に日刊スポーツとの打ち合わせがあり、この連載の編集部側の意向が記されていましたので、引用します。
 日刊スポーツからは「震災後半年を迎える神戸の人々の喜怒哀楽を描いて欲しい、との依頼」[18]があった。しかし、田中氏としては出会った人々の数は多いが、「その境遇にまで立ち入って知っている相手は極僅かだ。論ではなく人間クローズアップで、と注文を出されて頭を抱える」[19]。こう記してはいますが、私には33記事のいずれも、田中氏を含めた人々の喜怒哀楽が書かれているように思えます。

 次に、「公」と「私」の記述のある10の記事から、次の2つの記事・エピソードに特に着目しました。
 一つは、電気、水道、ガスなどのインフラは「税金を()ぎ込めば元通りになる。問題は「公」の復興ではなくて「私」の復興ではないのか。そうして、「公」が落ち着けば落ち着くほど、自分だけが取り残されていく(あせ)りとも(あきら)めともつかぬ精神状態に陥る「私」が増えていく」[20]というところです。
 次に、「自衛隊が駐屯(ちゅうとん)して炊き出しを担当した東灘小学校の場合、撤退と同時に「公」から配給される冷たい弁当に逆戻りしてしまった。自助努力で温かい食事を人々が作るシステムが構築されなかったからだ。」[21]の箇所です。

 最初の箇所は震災後半年がたった頃に、東京で「どうです、少しは向こうも落ち着きましたか?」[22]と聞かれて「思わずムカついてしまう」[23]ときに感じたこと。
 ここでうかがえることは(それはこの本を一読すればわかることではありますが)、田中氏が単に物資を提供していただけではなく、手渡すことで人と交わり、被災直後からインフラの復興までの人々の心の変化を肌に感じてきうえでの思いいたりとして、心のケアが必要だと感じていたということでしょう。この文章が文庫版の「ゲンチャリにまたがって」の最初の記事として挙げられ、日刊スポーツでの連載でも第1回目に掲載されていることからも、田中氏の基本的な立ち位置であろうことが推測されます。
 ここで田中氏の想定した感情、周囲が復興していくにもかかわらず、自分だけが取り残されていくと感じる人とは、どのような人でしょうか。
 「公」に声高に物資や金銭を要望する人ではないだろう。そのような人は要望が通らない不満はあろうが、取り残されていく焦りや諦めはない。
 また、「私」ですっかり復興を成し遂げた人でもないだろう。そのような人はすでに焦りも諦めもない。
 おそらく、なんとかしたいと思いつつも、できない人が、このような焦り、諦めに陥るのだろう。「公」に頼り切ることをよしとせず、かといって「私」の努力ではいかんともできない状況に対したとき、このような思いにとらわれる。
 このような人、具体的には避難所ではなくテントや損壊した自宅に留まる人々、に主に物資を届けることになったのだろう。これは、もともとそういう考えで選択したのか、選択した結果としてそう思いいたったのかは、なんともいえません。ただ、こうした思いと関わり方が合致しているという点を指摘するにとどめます。
 なお、同じことが平成8年1月に発行された『神戸震災日記』の書き下ろし文章では、「税金を使えばいとも簡単に修復できる道路や鉄道と違って、個人の物心両面の復興には時間が掛かる」[24]と書かれています。先に引用した平成7年7月3日に日刊スポーツに掲載された文章と比べ読むと、田中氏がこの記事では、より人間に力点を置いて書いているのがわかります。

 次のエピソードは、こんな場面での思い。
 東灘小学校の避難所を三月下旬に訪れた田中氏が、ボランティア側から避難民に「調理をして温かいものを食べませんか」と言ってみないのかとボランティアに尋ねた。すると、「そうした言葉が避難者側から出てくるのを待っている」とボランティアの青年が答えた。
 このとき田中氏は震災から二週間たっても避難者側から自発的な声が出てこなければ、働きかけ、調理器具の調達など側面支援をするのが「真に頼もしいボランティアというものではなかろうか」[25]と考えます。
 そして、自助努力と側面支援がうまくかみ合っていた鷹取中学校の避難所でボランティアをしてる幼稚園教諭の話を続けます。
 「公」が避難所への弁当の配布に象徴されるとすれば、「私」は避難所の人たちが自分たちでの調理ということができます。
 ここで「私」を被災した人たちだけに限定する捉え方もあります。それはボランティアの青年の考えに近く、被災した人が判断・行動主体という考えです。
 一方で「私」にはその場にいるボランティアも含める捉え方もあります。これは避難所での食生活を良くする方向で働きかけて「共」に活動するという、田中氏の考えに近いものです。

 ここで、田中氏の「公」と「私」について少し補足しておくと、政府・社会と個人といった意味だけではなく、他力(本願)と自(助努)力といった意味あいをもって使われているケースがあります。この2例はそれが強く感じられるところです。
 また、この2つのエピソードは、田中氏の阪神・淡路大震災への関わる姿勢と現場での事例からの考察という2つの面で、それらがいずれも公と私の関係からとらえられているという点で興味深いものでした。

 田中氏のこうしたボランティアの活動とその経験は、ほかの多くのボランティアにも共通した経験として、阪神・淡路大震災後に「公」と「私」という二分法から「公」・「私」・「共」の領域の共存の方向へ拡がっていくのを後押しするように機能したのではないだろうか、と私は考えます(当時すでに「企業市民」という言葉や富士ゼロックスの端数倶楽部など、「私」の領域から「共」の領域への拡がりは少しずつですがありました)。

 なお、2016年の現在では、災害のみならず生活の領域も「公」「私」に「共」の領域も加えて語られることが多くなっています。2016年現在で共の領域を主に担う主体としてNPO法人が想定されますが、平成7(1995)年の時点ではNPO法人制度はありませんでした。阪神・淡路大震災を受けて、平成8年12月に「市民活動促進法案」第139回国会提出(議員立法)以後、継続審議され、平成10年3月19日に衆議院にて「特定非営利活動促進法(NPO法)」が可決成立(同年12月1日施行)という経緯をたどります。[26]

脚注

[1] 朝日新聞 昭和61年7月7日 夕刊

[2] 朝日新聞 平成5年7月19日 朝刊2・3面見出し

[3] 『戦後政治史 第三版』(石川真澄、山口二郎著 岩波新書 2010年) P185

[4] 内閣府「阪神・淡路大震災教訓情報資料集」

[5] 『神戸震災日記』(田中康夫著 新潮文庫 1997年)P176

[6] 『神戸震災日記』の初出一覧には 95年7月31日~8月21日連載とあり、『ペログリ日記’94~’95 震災ボランティア篇』(田中康夫著 幻冬舎文庫 1997年) では6月27日の日記(P304)に7月3日から掲載とあります。日刊スポーツを確認したところ、7月3日からでした。また、連載の最終記事である8月21日の記事に45とあり、文庫掲載は33記事でしたから、連載すべてを文庫に収録したものではないようです。

[7] 『ペログリ日記’94~’95 震災ボランティア篇』 P210

[8] 同書 P210

[9] 同書 P218

[10] 『神戸震災日記』 P222

[11] 同書 P238

[12] 同書 P12

[13] 同書 P12

[14] 同書 P13

[15] 同書 P13

[16] 同書 P210

[17] 『神戸震災日記』で「公」「私」の記述のある箇所(かぎ括弧内は見出し、ページ数は同一文章で最初に記述のある箇所を示す)

  1. P100 「思わずムカついてしまった……」
  2. P111 「右翼団体のボランティア」
  3. P118 「自転車よりゲンチャリだ」
  4. P133 「キンちゃんに会いたくて」
  5. P148 「辻田さんの復興作戦」
  6. P153 「喫茶たかとり」
  7. P166 「ベネトン、シャネル、ランコムからの提供品にびっくり」
  8. P182 「青木テント村の人々」
  9. P187 「東神戸朝鮮初中級学校のいい話・つらい話」
  10. P207 「心の復興になぜ手を貸さないのか?」

[18] 『ペログリ日記’94~’95 震災ボランティア篇』 P302

[19] 同書 P303

[20] 『神戸震災日記』P100

[21] 同書 P153

[22] 同書 P100

[23] 同書 P100

[24] 同書 P42

[25] 同書 P154

[26] 特定非営利活動促進法(NPO法)のこれまでの経緯

参考文献

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